言葉遊び

このブログのタイトルでもある 言葉遊び とは、もっと簡単な単語や言い回しで置き換えられるのに、比喩表現や言い回し、韻の踏み方、単語選びに個性を出し、全く異なる印象を相手に与える様を眺める高尚な遊び、と定義しています。
想像力と遊ぶ感じですかね。自分の中にある想像力に対して、言葉で捉えると言うか、具現化する。
そうすることで、今自分がどういう心理状態なのか、自分の感覚に名前を付けることで、安定を保てる。
言語のバリエーションの多い日本語ならではだと思います。

僕は物心ついた時から言葉遊びをしていたと思いますが、誤解を恐れず言えば、人と遊ぶ時間より楽しいです。人と時間を共有すると、想像力を使うことが出来ない(正確に言うと、自分への想像力を相手に使うことになる)ので。
いや、あんまりそういうこと言うと友達いなくなるので嘘です(笑)

ただ、言葉遊びに必要なリソースは自分の頭の中だけなので、コスパが良いです。お金をかけずに時間潰しが出来ます。

「よく遊べ」と言う通り、遊ぶことは大事です。言葉も一緒。遊ぶことで本質に近付く。言葉遊びの妙で笑わせられる力、それがインテリジェンスなわけですが、
もう少し遊ぶという状況を艶っぽく表現するなら、言葉と一夜を共にし、寂しさを紛らわせてきた。
言葉遊びの達人<言葉の遊び人<言葉のプレイボーイ
みたいな感じになると思います。
(B’zの稲葉さんやミスチルの桜井さんなんかはそんな感じがすごくしますね)

SNSやブログで言葉を使うことが多くなってきた分、「言葉遊びが行き過ぎてる」状況も増えてきました。言葉遊び、火遊びゆえの炎上、みたいな。

あるいは、言葉の遊び人同士がぶつかってしまったり。
自分の心や頭の中にある得体の知れなさを自分の言葉で置き換えてきた人間にとって、例えそれがどこそこの何とか学者であれ、他の言葉やロジックで置き換えられることに抵抗があるものです。他の人の言葉で遊ばれてるのは何か違うという作用が働くからでしょうね。
今、自分が表現している文章は、そういった凶器にも火種にもなりうすということを意識し、ルールと節度を持って、遊びたいものです。

もちろん、逆に、選ぶ単語や表現の仕方、着眼点など、つまり遊び方が似たり影響されたりすることもあるわけですね。


推理力ないコナン君状態

浮気を問い詰められてるけど、全く心当たりがなく、しかも、相手の主張も全く的を射てなくて、延々とケンカが止まらないという状況、経験したことはないでしょうか?
これはもう、相当にキツいわけですが、ひとまず、「推理力ないコナン君状態」と名付けることにしました。

そういう時、相手は「浮気をしている」という妄想と戦っているわけですよ。確実に疑われている方が分が悪い。
だって、ないものはなくて、本当にないわけですから、どれだけ問い詰められた所でないとしか言えない。無罪を証明することの難しさ。

コナン君「あなた、浮気してますね?」

俺「してないって。」

コナン君「それではなぜ、スマホにロックをかけるようになったのですか?以前はしてませんでしたよね?」

俺「それは防犯意識が芽生えたからで…」

コナン君「そう言うと思ってましたよ。」

俺「いやいや。」

コナン君「じゃあ、なぜ、あなたは最近になっていきなり、ダイエットを始めたんですか?それは、裸を見せる関係にある新しい女性が出来たからではないですか?」

俺「いやいやいや。多少、起業家として人目に触れることもあり、見栄えがビジネスを左右することがあるかr…」

コナン君「あくまでもシラを切るつもりですね。いいでしょう。」

俺「あーもうだからぁ〜」

俺「愛してるよ!」

真実はいつも一つ!

っていう。

えっ、何これ?


トークのレシーブエース

誤解されがちですが、トークがうまい人ってのは、自分から面白い話を発信出来る人ではありません。受け答えの妙です。

相手から発せられた言葉に対して、的確な返答を的確な間で、的確な声量で返す。
その一つ一つのやり取りが蓄積されて、相手は心地よさ、信頼を感じる。トーク上のありとあらゆる違和感(嘘や作り話含め)を消すわけです。
この感覚はホストとして、何百人のお客さんを接客してきたことから間違いないです。自分含め、そういう場面に何度も遭遇してきました。

例えるなら、横山光輝版三国志の中に、関羽が敵の武将と一騎打ちをしているシーンがあるのですが、関羽は攻めず。相手に一方的に攻撃を仕掛けられている。
聴衆たちは言うわけです。「関羽、押されてる」と。
ただ、よくよく見ていると、攻めているはずの敵将の方がキツい様子。
実は、関羽は攻められないのではなく、相手の攻撃を全部いなしてたんですね。捌いてた。

トークも一緒です。
ネタ見せ芸人でなく、それがもし、接待や合コンのように受け答えを重要とするシーンにおいては、こっちから面白い話をすることを意識する必要はありません。
その過程で必ず、大爆笑が取れるようなレシーブエースを返す瞬間があるはずです。


ニューカマーのジレンマ

流れ作業をやっているとします。
何でもいいんですけど、例えば台車を使って引越しの荷物運びを五人くらいでしているとしましょう。3往復目くらいまではそれぞれがそれぞれのやり方を試行錯誤して、効率化を図るわけです。

縦に積むより横に積んだ方がいい、台車は二人で持つより一人で持った方がいい、台車に乗せる荷物は敢えて5個までにしよう…などなど。
そうやって、一つの型が出来上がる。最良な荷物運びの流れが出来たわけです。

ところが、
そこに来るわけですよ。ニューカマーが。

ニューカマーは我々が既に出し尽くして却下した案、施策をさもこれ見よがしにおっぱじめるわけです。
「このやり方の方が効率いいっしょ?」
みたいな感じで。

いやいやいや。それ、A君が一周目にやったわ。それはB君とC君が二週目に検証した結果、C君のやり方が採用されたからこうしてんの!

途中から来た分、変にテンションと勢いだけはあるから、そのやり方をしないとダメみたいな空気出してくるわけです。そんでしぶしぶニューカマーのやり方を3周くらいやるんですけど、やっぱり元のやり方の方がいい。効率的。
どのタイミングで戻そうみたいなことを葛藤しながら非効率なやり方を続ける理不尽さ、これをニューカマーのジレンマと名付けました。

そんな人がいたら是非、ニューカマー扱いしてあげて下さい。イノベーターではなく、キミはただのニューカマーだと。


これからも東京で消耗していくよ

某有名ブロガーさんを意識していますが、まずは東京で消耗することについてと、そこに端を発し、最終的には東京論や地方論という、大きな枠組みで、僕なりの東京論を書き綴っていきたいと思います。

第一部:東京で消耗することって、そんなにキツイこと?

くだんのタイトルによって、東京=消耗というイメージが加速したことは疑いようのない事実ですし、実生活をしていて、その認識で間違いないと思います。東京での生活は消耗の連続。
格差も大きい。その差を埋めるべく消耗して、どんどん疲弊していく気持ちはよく分かる。

ただ、「消耗=ネガティブ」か?って話なんですよね。僕の中で根本的にある発想が。
そもそもこれ、まず、地方出身者かどうかで大きく分岐するんじゃないでしょうか。消耗に対する捉え方、ネガティブとポジティブと。

僕個人(典型的な地方出身者)として、自分は敢えてその消耗戦を戦うために上京してきてるんですね。
思春期の時ずっと思ってましたもん。この町には野心がない、と。田舎の校舎の窓の外から、いつかその戦いに身を投じる姿をずっと夢見てました。

憧れてたんです。野心、自信、向上心、そういうのむき出しで、イケイケで、一種の戦闘民族なのかもしれません。もちろん、その消耗戦に勝てると思っちゃってますよ。
つまり、敢えて田舎くさい表現をするなら、「消耗上等!」って感じです。東京での消耗に対してポジティブな受け取り方をしています。反逆心にも似た感覚かもしれません。
そうなんですよ。地方出身者の東京コンプレックスってすごい(少なくとも僕は)。
「東京に生まれてたらもっとイケてたのに」ってことに尽きるんですけど、そのタラレバが人生に尾を引くくらい肥大化してる。
逆に言えば、それが物凄いエネルギーになってる。
殴り合うことを怖いとか痛いとか、全員が全員思うと思ったら大間違いで、例えばそれがボクシング選手という立場なら、殴り合いにむしろ活路を見出すわけです。そこにチャンスがあると思えるなら。

消耗についても一緒です。消耗した先に野心を満たす何かがあると感じちゃった人間は、消耗戦はポジティブに見えます。

もちろん、地方出身とは言え色んな立場はあります。先ほどは自分のことを典型的な地方出身者と名乗りましたが、
東京に行きたくても家の事情で行けない人。東京に挑戦したけど地元に帰った人。いや、そもそも東京なんて全く興味ないよという人。そして、自分のように未だ東京との戦いの真っ最中の人。
色んな立ち位置がある。

ただ、どんな立場であっても、今現在、東京とどう付き合っているかは別として、地方生まれの人ってのは、18.19,20くらいの時期、あるいはそれ以降もこじらせながら、東京を強く意識したり、心のどこかにしまい込んだり、敗北感や憧れ、嫌悪感など、様々な感情を抱くもんなんじゃないですかね。地元にいる友達や家族など、自分の周りの人間含め、何となく意識しているのかなって感じることがあるわけです。色々な思いを聞きます。

いずれにせよ、地方の人は東京に対してネガティブな人もいればポジティブな人もいる、東京での生活に多様性があるわけですね。
だから、消耗に対してもポジティブとネガティブに捉える人がいるという感覚、もしかしたら東京生まれの人には理解出来ないんじゃないかな。例のタイトル=東京で消耗している人=かわいそうな人、っていう一方的な捉え方に対する違和感はここら辺で感じました。

「東京」「TOKYO」「トーキョー」
「東京に勝つって何?」「町と戦うとかバカじゃないの?」と思われるのかもしれません。

確かに、ここら辺の感覚が分からなければ、東京で消耗することにポジティブを見出すことはあまりないのかもしれません。全く価値をなさない行為と片付けられてしまうかもしれませんね。

だから、一つキーポイントとして地方出身かどうかってのは重要なんだろうなと思ったわけで、東京生まれの人が、東京で消耗している地方出身者たちのことを俯瞰して見る行為自体、ちょっとズレてると思うし、あまり意味をなさないと感じました。
実際、某ブロガーさんにどれだけ煽られても何とも思いません。僕は。

もし、東京生まれの方で、そこら辺の感覚、イナカモンゆえの上昇志向みたいなものを理解したいと思われる奇特な方がいるのなら、長渕パイセンの名曲「とんぼ」を聴いて頂きたく思います。あぁ、こういうことなんだ、と参考になることでしょう(その対義語はDragon AshのGrateful Daysということになりましょうか。ただ、安心して下さい。地方出身者は既にこの曲の有名な歌詞を何百回も聴いてますし、口にしているので、東京生まれの感覚は既にインストール済みです)。

ただ、そこら辺のズレはあるものの、「東京で消耗してるの?」という一言が、「地方論・東京論」に大きなインパクトを与えたことは事実だと思います。ここまでバズってる裏には多分、そういう、東京とどう向き合うか、みたいな、普遍的な若者の葛藤を大いに刺激し、これからの地方のあり方、目指し方、あるいは大袈裟な話、これからの日本を考えるきっかけを投げかける形になったとは思います。

まずここまでをまとめると、
①某ブログでは東京で消耗することをネガ前提で描かれているが、地方出身者の中には僕のように好き好んで消耗戦を戦っている奇特な人もいる。むしろ、そう思える自分がけっこう好き。
②そして、東京生まれの人は東京での生活に多様性がなく、多様性がないからこそポジな側面が抜け落ちている。
その状態で消耗=ネガと煽られても全く影響がない。だって、僕らの気持ち(上記①)を分からないじゃん。いちいちむかついたりする必要がないし、ましてや炎上するのも分からない。
③ただ、どういう立場になったとしても、年頃の若者にとって上京するのしないのという出来事はそれなりに大事で、「東京で消耗してるの?」という煽り文句が、その葛藤に大きな刺激を与えるキャッチコピーであることも事実なんだなと。そして、僕自身、それに感化されたので、東京で消耗するということがどういうことか、それのみに結論を出して終わらせるのではなく、大局観を持って自分なりの東京論・地方論を掘り下げてみたいなと思うに至りました。

そして、ここからは、僕が東京で十年選手として消耗戦を戦い抜き、酸いも甘いも感じ取った中で、上記のテーマ「地方論・東京論」みたいなものに対して、ガチャガチャ述べていきたいと思います。

第二部:僕らはこれからも消耗を続けていくのか?そこに活路はあるのか。

地方から東京に遊びに来た人が、「東京すげー」みたいなことを簡単に言います。まして僕は赤坂とか六本木とか、うぇいうぇい系の町を生活拠点にしているので、友達を案内すると物凄いカルチャーショックを受けて帰る。

さっきから散々、「俺は消耗戦したくて上京してきてるんだ」、「消耗なんて屁でもねぇ」と宣ってきてアレなんですが、もちろん、そういう生活を勝ち取るまでに、数限りない劣等感や敗北感を味わってきましたよ。
そりゃ、何度も打ちのめされました。すっごいストレス感じて、自分の脆弱さに何度膝をつきそうになったか、そんなの数限りない、その頻度たるや、「君は毎朝食べるパンの数を今まで数えているのかい?」と言いたいレベルです(ただ、それすらウェルカムだったって結論なんですけどね)。

東京に勝ちたい、東京に自分のポジションを作りたい、東京に必要とされたい、東京に、東京に、東京に…(もう一度言いますが、東京生まれの人は是非、長渕パイセンの「とんぼ」、つまり、「死にたいくらいに憧れた東京のバカヤロー」という感覚を思い出して下さい)。
だから、消耗がポジだと言っているだけで、そこにしんどさがないとは言ってないわけですね。そのしんどさすら含めてポジなわけです。

もちろん、ドMと言われればそれまです(ただ、人生に対するM度と異性に対するそれとは根本的に違います。従って、よく合コンなどで、聞いてもいないのにやたらとSアピールをしてくるような、Sな男がカッコイイと頑なに自分のなりたいキャラ設定を押し付けてくる感じのM批判みたいなのはしないで欲しいです)。

救いがあるとすれば、東京に残っている人間というのは、それまでの人生の中で東京に勝ったと、少なくとも東京での生活に多少なりとも手応えを感じたことがあるんだと思います。だから、この戦いはやめられない。

これが、東京で消耗を続けている人間たちの、東京に残る理由です。少なくとも僕は、これからも東京で消耗を続けることでしょう。救いようもないアレとはこのことです。
やっぱりサイヤ人ですからね、戦って戦って、死にそうになるくらい戦って、そうやってスーパーサイヤ人を目指したい。

でも、それはあくまでも一個人の生き方のこだわりでしかないということを強調しておきます。
そしてここからは、大きく時代が変わり、自分自身の年齢も変わり、東京と戦う病をこじらせたかつての自分ではなく、もう少し冷静に物事を考えられるようになった自分の見解を書き綴っていきたいと思います。むしろ、ここからが本意。

第三部:これからの若者はどこを目指すのか?

僕の中には群馬県太田市(僕の出身ですが)代表として東京に対峙しているという意識があるわけです。そのアイデンティティーがあるから東京と戦うという発想になる。

冒頭で、東京生まれの人にこの感覚が分からないと書きました。当たり前ですね。東京生まれの人は「ヨソの町」代表になることはありません。
従って、町vs町の関係になれない。だから、町と戦う意識が薄い、薄いと言うか存在しない。少なくとも東京と対峙する感覚が。
当然、踏みにじられたり、ねじ伏せられたりという感覚がないので、スーパーサイ○人にもならない。
(余談ですが、僕は地方都市に行った時、その町が東京のどの都市に似ているかを想像することが好きだったりします。例えば仙台は吉祥寺、とか)

でも、この「ヨソの町代表的な発想」というのははっきり言って、前時代的な話です。インターネットが普及していなくて、情報に大きな隔たりがあったから生じる村根性なわけです。今の時代、地方にいながらも東京のことを何となく知ってる。だから、田舎町代表として東京と向き合う濃度が薄れています。
そして、これはすなわち、地方創生などでよく出てくる「東京VS地方」という対立構造自体、もう意味をなさないということでもあると。当然、田舎暮らしと東京での生活を比較する意味も一切ない。

具体例を挙げるなら、例えば福岡市。噂には聞いていましたが、福岡市の盛り上がり方すげーなと。びっくりしたわけです。特に繁華街の熱気とか半端ない。福岡は何でしょう、町が完成されているって感じです。東京から来た人の優位性が通用しない。「東京モン?だから?」みたいな感じ。そして、そこに変な劣等感、負け犬根性がない。僕が福岡に生まれていたら、変に意識するあまり、東京にケンカ腰になることもなかったんだろうなと思いました。喧々した所がないまま、高い幸福度を味わいながら人生を送れたかもしれない。

程度の差はあれど、地方都市はこんな感じになっていく(なっていくという未来予想図ではなく、むしろ、こうなっていくべき、の方が近いですかね)と感じます。

今日日(きょうび)、薄汚れたバッグとギターだけ持って「今から東京に喧嘩売りに行くぜ」とか、そんなものはないわけです。東京の住生活の情報があちこちにありますから。「私は田舎を捨てたのよ」なんて、演歌歌手でも言わない、むしろ、そんなこと言いたくても言えない。SNSがあるから、何となく、知れてしまう。
これは、良くも悪くも東京での成功にダイナミズムがなくなったことを意味しますが。

なぜそんなことが言えるか。これは、世代が深く影響してると考えてます。

僕の同時代(1984年生まれ)っていうのは、インターネットの普及による情報化社会の成熟度がかなり際どかったんですよね。ITバブルはちょっと上ですし、ゆとりやさとり、ミレニアムでもない。Windowsとスマホの中継ぎだったので、どちらもかすってない。
そうなると、自分が上京を考える頃っていうのは、まだパソコンやインターネット環境が整ってる家庭の方が珍しいわけです。つまり、当時18歳そこそこの自分には、ギター一つで東京に出てくることがまだリアリティーがあったので、ちょっとカッコよく見えましたし、SNSもないので、私は故郷を捨てて東京で別の自分になるみたいな、そういう変身願望を満たす厨二病的展開もあり得たわけです。
だから、谷間世代を生きた世代だからこそ言える。

そこからの情報化社会のスピードは皆さんの知る所ですよね。僕らより3,4歳年下以降の人たち、デジタルネイティブな人たちは、そういう情報にいとも簡単にアクセス出来ることが基礎力として備わっているわけです。
当然、薄汚れたバッグとギターだけ持って東京出てくるやつは「ただの情弱でダサいやつ」なわけです。変身願望もくそもない。まぁ、ある意味夢も希望もない。
東京が死にたいくらいに憧れる存在ではなくなった。そんな今の状況なら、切った張ったの消耗戦を戦いにわざわざ上京しなくてもいいんじゃないかと、素直に思います。そこまでする価値はもうないのかもしれない。Iターン、Uターン含めて。

何となく、結論が見えてきましたね。
東京にこだわる方が垢抜けないという逆転現象が起きている今、東京を目指さず、地方にいながら世界に出たり、最初からそういう視座の高さで人生を設計することが、これからのスマートな生き方だと思いました。
いつまでも消耗戦をやってる僕らを、その次の世代の人に「いつまで戦ってるの?」と言われるのは至極もっともな話です。その投げかけだけはやっぱり的を射てる。時代は確実に変わるよ。

以上、長くなりましたが、お付き合いありがとうございます。

ちなみに、ここら辺の上京するのしないのをテーマにした小説を書きました。
二十歳の恋の物語
iTunesでアプリとして配信中です。もしよろしければご一読下さい。それでは。


場末ソング

場末ソングとは、歐陽菲菲「Love is over」、高橋真梨子「ごめんね」「for you・・・」に代表される、決してスタイリッシュではないが、後世に歌い継がれる歌謡曲。
シチュエーションこそ違えど、男と女の関係になぜか心当たりがあることが多い。

そんな時は、しゃがれたママの歌声に身を任せ、ちょっと濃い(焼酎もお茶も、煮出し過ぎやw)緑茶ハイを一口、また一口と呑む。そんな夜があってもいい。


幼少期の過剰なアウトドア経験が子供に与える団体行動のストレス

自分の幼少期を振り返ると、とにかく、団体行動が出来ない子供だったと思います。
歩幅を合わせなければならない意味が全く分からない。ものっ凄いストレスだった。

例えば掃除ですが、もし自分一人でこの部分を掃除しなさいと言われたらけっこうやる。責任感を持って。
ところが、同じことでも、皆でやりましょう!という展開になると一気に萎える。
「だったらいいじゃないですか。この人たちがやれば。僕は他のことやりますから…」っていう。

もちろん、そういう性格だったと言えばそれまでなのでしょうが、ふと、思い当たる節がありまして、
それが、幼少期の過剰なアウトドア経験なんですね。子供の頃に過剰なアウトドアを経験すると、大人になってアウトドア嫌いになり、かつ団体行動に対する憎しみにまで発展すると。

アウトドアの定番と言えば、海水浴、山登り、スキーなどだと思います。これら全てにけっこうな闇を抱えていて、それらを作ったのが母なんですけどね。
ウチのオカンはよく分からない教育をしたがる人でした。

まず、男たるもの泳げなきゃモテないということで、とりあえず桶に水を溜め、その中に顔を突っ込まれました。幼稚園くらいの時(もちろん、虐待ちっくなことではなしに)。
これが原因で僕まったく泳げませんで、小学校三年生くらいまでスイミングにも通ってたんですけど、ケノビで8m泳げたの泳げないので成長が止まってしまったわけです。
もちろん、いつまで経っても次の帽子に進級出来ず、しまいには幼稚園低学年の子と水中じゃんけんをしながら先輩風を吹かすという、クズみたいな子供でした。
だから海は苦手です。

次にスキー、雪山の類ですけど、同じく、男たるものスキー場で颯爽とスベれなければモテないと言い出しまして、えぇ、もちろん母が。
年に2回くらいスキーには連れていってもらってたんですけどね。母の友達とその子供たちでワイワイガヤガヤ。子供心にそういうのめっちゃ楽しいじゃないですか。
もちろん、他の皆んなはリフトに乗ったり、転びそうになりながらも何とか雪山を駆け下りるわけです。
その時、僕は何やってたかと言いますと、一日中カニ歩きの練習。
しかも、僕があまりにも上達しないで泣き喚くものだから、二日続いてカニ歩きという、それがスキーデビューでした。
当然、スキーや雪山の類は嫌いになります。

キャンプ的なものもよくやりました。なぜなら僕は子供の頃、ボーイスカウトに入っていたからです。
まぁ、楽しい思い出の方が多かったはずなんですけどね、僕、死ぬ程わがままだったので、よくキャンプ初日で、「もう帰る」、「ヤダ、俺、帰る」と、よく泣き出すタイプの引っ叩きたくなるタイプのくそガキだったわけです。
ボーイスカウトって正に団体行動の押し売りじゃないですか。だから嫌いになってしまったんですね。いや、ならボーイスカウト入るなよって話なんですけど。
それに、エビ結びとかが将来、何の役に立つか一切分からない。
とにかく、そんなこともあって、山とかキャンプもダメなんですよ。

こういったことから、僕、今だにアウトドア全般好きじゃないんです。

そりゃそうですよね。大人だって山登りとかスキー疲れとか、しんどいと思うこといっぱいあるのがアウトドア(むしろ、そういう不自由を経験するのがアウトドアなわけです)なわけですよ。
それでも高い山を登りきった時の爽快感とか、ビールを飲み干したうまさとか、そういう、やりきった後の快楽と一緒に経験していくべきなわけで、その振り幅が小さい時期から詰め込むのは逆効果。不自由に対するストレスが半端ないと思います。

そして、アウトドアそのものならず、アウトドアが醸し出す団体行動の必要性、みたいな感覚も一緒です。
個の力を育まなきゃいけない成長過程において、団体行動ばかりを押し付けるのって、僕は懐疑的な意見です。

アウトドア好きな、アクティブな子供に育てたかったら、あるいは、団体行動をきちっとする子に育てたかったら、逆にあまりアウトドアをさせない方がいいでしょう。


JRA

ガンダムがけっこう好きでして。僕の人生哲学は幼少期に受けたガンダムの影響が色濃く反映されていると言っても過言ではない程です。
「正義とは?」「戦うということ」「人の優劣」など。

ガンダムは、ロボットアニメ史上大きな変革を起こしたと言われてますが同様の位置付けには当然、エヴァンゲリオンがあるでしょう。
そして、遥か遡れば鉄人28号に始まる、ロボットアニメの走りとなる古典作品があります。

本日はガンダムを含め、時代の節々に大きな変革を与えてきた上記ロボットアニメにメスを入れながら、日本ロボットアニメ(以下、JRA)の変遷をお送りしたいと思います。

僕はJRAには3つのフェーズがあると考えております。

一つ目。ロボットアニメの起源は鉄人28号と言えるでしょう。
この作品はマジンガーZやグレンダイザーなど、いわゆる超合金ロボットアニメに大きな影響を与えました。そしてそれら同時代のロボットアニメが、JRAというジャンルの発祥です。
ストーリーとしてはかなりシンプルで、要は、世界侵略を企てる悪の組織を主人公である少年がやっつけるという、まぁ、例のアレです。それからしばらくはこんなストーリーの作品が続きます。
戦争が終わり、分かりやすい悪をやっつけるという単純な思考が必要だったのでしょう。

そんな中、ここで第一の変革、パラダイムシフトが起きるわけです。立役者はもちろん、ガンダム。これが2つ目のフェーズ。

ガンダムはそれまでの「主人公の敵=絶対悪」という構造を打ち壊しました。
描かれている戦いはあくまでも立場の違う二者間の争いで、ただ主義主張が違うだけ。それはともすれば、主人公サイドが悪にもなりうる。ガンダムはこの部分を徹底的に視聴者に見せていきました。
その後、ガンダムは今日に至るまで十シリーズを超えるシリーズ作品となり、JRAは超合金ロボットからガンダムシリーズという第二の成長を遂げるわけです。

続きますのはエヴァンゲリオン。ここで二回目のパラダイムシフト、言わばJRA界のセカンドインパクトが起きます。

斬新な演出、主題歌のインパクト、ロボット(?)のデザイン、陰謀論を思わせる張り巡らされた伏線、性の取り扱いや衝撃的なラスト…この作品は、それはもう他の追随を許さない程、JRAの歴史の中で燦然と輝く作品であることは疑いようのない事実です。何から何まで強烈でした。

以上が、JRAのざっくりとした流れかと思いまして、
それを踏まえた上、ガンダムの時と同様、「主人公が戦っていたもの」に論点を絞り、考察していきたいと思います。

ガンダムが、それまでの「絶対的な敵という関係性」から「主人公と敵の関係はあくまでも相対的」という変化を与えたと記載しましたし、アメトークのエヴァ芸人内でも語られていました。
その流れの中で、じゃあエヴァは何と戦ってたの?という問いがありまして、恐らく、オリラジのあっちゃんだったと記憶していますが、
「何か分からないもの、謎なものと戦ってる」と語られておりました。

ご存知かとは思いますが、エヴァンゲリオンにおける敵とはもちろん、使徒です。
それじゃあ、使徒って何ですか?

目的もどこからやってくるのかも分からない、何体いるのかも分からない。でも、とりあえず倒さなければならないもの。
あっちゃんが謎と語ったこともうなずけます。

しかし、もっと突っ込んで考えてみると、分からないけどそれでも倒さなくてはならないものって何でしょう?

エヴァンゲリオンがリアルタイムで放映されていた時、僕は小学校五年生くらいだったでしょうか。
その時はやはり、主題歌のインパクトがどうしても強く、作品そのものにのめり込んでいったのはそれから数年後、中学生になってからだと思います。ちなみに、主人公たちもそれくらいの年齢設定ですね。
小学生でもなく高校生でもない、中学生という微妙な年頃。その年代の頃、自分が何を考えていたのかと思い返すと、自分の正体や存在意義だったような気がします。

もちろん、そういう言葉で置き換えることすら出来ずにいましたが、言っても子供ですし、人生決まるレベルのイベントが自分に起きることも普通の中学生ならありません。
具体的な問題ではなく、もやもやと言うか、得体の知れない不安、悩み、自意識と戦っていたような気がします。

どうでしょう?

それって、エヴァンゲリオンにおける使徒の定義と一緒だと思うんですよね。
つまり、使徒って人間の心の闇なんですね。

思い起こせば、エヴァンゲリオンは「心」の問題をちらつかせる表現が多いように思います。ATフィールドもそうですよね?心の壁という。
心を閉ざしたり開いたり、心が暴走したり。

そう考えた時、碇シンジという主人公が何と戦っていたか、おのずと答えは見えてきます。自分自身なんです。
わけの分からないものと戦っていた、確かにそうでしょう。
自分の価値とか存在意義が明確な中学生などいません。恐らくそれはある時が来るまで決して解決することはありません。もしかしたら解決すらしないかもしれない。どこから来て、どうすれば勝利するのか、正体も目的も終わりも定かではありません。
悩み、不安、自意識という当事者の内側にしかなく、決して表に現れることのないもの、

エヴァンゲリオンは、当事者の言葉でしか綴ることが出来ない(または時にそれすら困難にさせる程、複雑な)もの、それを使徒という有形のものにデフォルメし、心の葛藤という、目には見えない戦いを視覚的に表現するため、ロボットアニメという体裁を取ったのだと、僕は考察するわけです。

そして、エヴァにおける主人公が何と戦ってきたかを解き明かすことで、JRAの歴史が完結します。

第一フェーズの鉄人28号は見知らぬ第三者
第二フェーズのガンダムは相手という第二者

JRAは、変革が起きる過程の中で、少しずつ自分に近付いてきました。

そして、ロボットアニメの主人公はついにたどり着いてしまうんですね、自分自身という敵に。

これは主人公とロボットの関係にも表れています。

鉄人28号は主人公がロボットをリモコンで「操作」してます。第三者的です。
ガンダムは「操縦」。操作だと他人行儀な感じですが、操縦は相手の中に入り、その上で自我を持ちながらロボットと対峙するという点で第二者的です。
これらに対し、エヴァンゲリオンは「同化(シンクロ)」してる。ロボットに取り込まれ、主人公の精神状態がそのまま反映される。時に暴走することすらあるという。つまり、自分そのものなんですね。

エヴァンゲリオンを以て、自分自身へと迫りくるJRAの歴史が完結してしまうんですね。

その先はありますか?
自分より先はないんです。
だからもう、JRAに変革はありません。サードインパクトは起きない。

断言しますが、エヴァンゲリオン以上のインパクトを与えるロボットアニメは金輪際ありません。

以上、長くなりましたが、この辺で筆を置こうと思ふ。

異論・反論はあるかと思いますが、一意見なのであまり気にせず、自分自身の見方でJRAを味わってみて下さい。


デビルマン

僕史上、最も人生に影響を与えた作品。

ちなみに、アイキャッチの画像はNetflixのアニメ版のポスターですが、このキャッチコピーが秀逸です。全く同感です。
トラウマ的衝撃。

ちょっとこれはもう、本当にヤバかったわけです。禁書指定した方が良い。読んじゃいけないレベルの漫画でしたね。
エヴァンゲリオン以上だと思う。

と言うのも、その時の僕は中学一年に上がる直前の春休みということもあり、コロコロコミックやコミックボンボン系の漫画ばかり読んでいた自分の成長ホルモンを分泌させようと、漫画の対象年齢を上げるミッションを自分に課しました。
そこで手に取ったのがデビルマンだったのです。劇画みたいな古びた絵のタッチとエロやグロなどを問答無用で描き切っているという理由で何となくでした。

途中でダレる部分はあるのですが、序盤の導入と第4巻辺りからの展開は衝撃でした(ノーヒントで読んで欲しいので敢えて言いません)。

いずれにせよ、「果たして人間は守るに足る価値あるのか?」みたいな、今でこそそういうのは多いですが、この作品をその年齢で読んだことで、物事を斜に構えて見るようになったと思います。

ちなみに、幽遊白書やハンター×ハンターの作者も間違いなく影響受けていると思います。仙水編とかモロに。

ただ、デビルマンの魅力を若い女子二人に鳥貴族で延々と語るのやめような。今思えば大分引いてたからな。


自分には霊感があるというキャラ設定

夏になると寺とか神社とか、場合によっては地元の仲間で集まって心霊スポットとか行っちゃったりすると思います。そうすると必ず、自分には霊感があるだのないだの言う輩が一人はいるものです。
もうね、僕がこの世で唯一嫌いなタイプですよ。

霊感A「きゃっ!今出た!見た?」

俺「…何が?」

霊感A「そっかぁ〜(残念ながら君には)見えなかったか…。」

何その、私、霊感あります的な選民思想根性!
めっちゃ腹立つわ!

百歩譲って、言い出しっぺはまだいいとしましょう。
リスクしょってるし。本当に許せないのは、その発言に乗っかるやつですよ。

霊感B「見た見た。やっぱり〜絶対いるよね!」

そんなの言ったもん勝ちやんけ!

霊感A「分かる分かる。赤ちゃんだったよね!」

霊感B「そうそう。境内の裏だった?」

霊感A「やっぱり一緒だぁ〜(私たちには特別な力が宿ってるから)見えちゃうの嫌だよねぇ〜」

会話で調整すんなや!

そこまで言うなら、どこに霊がいてどういう形だったか、フリップとかに書いてせーのでお見せしろよ。それで一致したら信じるから。

えっ、そんなあなたの後ろに…


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